呪術廻戦に受け継がれた『残穢』の呪いの系譜──小野不由美が描いた「呪いは廻る」思想とは

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『呪術廻戦』に登場する「残穢」という言葉。そのルーツは小野不由美のホラー小説『残穢』にあることをご存じでしょうか。

芥見下々氏は、作中で「小野不由美さんの同名小説から取った」と明言しています。しかし単なるオマージュにとどまらず、『呪術廻戦』の根底にある「呪いの連鎖」や「負の感情の継承」といったテーマが、『残穢』の思想と深く結びついているのです。

この記事では、『呪術廻戦』と『残穢』を比較しながら、両者に共通する“呪いの構造”と“人間の負の連鎖”の本質に迫ります。

この記事を読むとわかること

  • 『呪術廻戦』に登場する「残穢」の由来と意味
  • 小野不由美『残穢』が描く呪いの連鎖構造
  • 両作品に共通する「呪いは廻る」という思想とその哲学

呪術廻戦における「残穢」とは何か──呪いの痕跡が意味するもの

『呪術廻戦』における「残穢」とは、単なるホラー的な要素ではなく、“呪いの可視化”として作品全体のテーマを象徴しています。

術式を発動するたびに残る“痕跡”は、呪いが形を持ち、現実世界に影響を及ぼすことを示す重要なサインです。

この「残穢」という概念は、小野不由美の小説『残穢』に由来しており、作中では呪いの痕跡が「人の行為や感情の残滓」として描かれていました。

「残穢」は呪いの残滓として描かれる

『呪術廻戦』で七海建人が語る「術式を行使すれば痕跡が残る」という言葉には、“呪いは消えない”という強いメッセージが込められています。

呪術師が力を行使するたび、そこには「負の感情のしみ」が残り、世界のどこかに影響を与え続けます。

この仕組みは、『残穢』で描かれる“家に残る怪異の痕跡”と重なり、呪いが人から場所へ、そして再び人へと伝わる連鎖を象徴しています。

「残穢を消したはずなのに追跡された」──呪いの持続性

物語の中で「残穢を消したはずなのに再び追跡された」という展開があります。

これは、単なる超常現象ではなく、“呪いが意志を持って動き続ける”ことを意味しています。

『残穢』では、原因を突き止めてもなお呪いが消えないという恐怖が描かれましたが、『呪術廻戦』も同様に、呪いが「存在そのものの連鎖」であることを示しています。

つまり、呪いは終わることのない残滓──それこそが“残穢の本質”なのです。

小野不由美『残穢』が描いた「呪いの連鎖」とその恐怖

小野不由美の『残穢』は、ホラー小説の枠を超えた“記録文学的ホラー”として高く評価されています。

この作品の恐怖は、幽霊の姿や怪奇現象そのものではなく、“呪いが人の営みの中で静かに受け継がれていく”という現実的な構造にあります。

「怪異を調査すれば真実に近づける」と思いきや、調べるほどに新たな呪いの層が現れ、過去と現在が無限に連鎖していく──その構造が読者の恐怖心を掻き立てます。

ドキュメンタリー風に追跡される「呪いの起源」

『残穢』の語り口は、まるでジャーナリズム作品のようです。主人公は怪異の発生源を探るため、住居の履歴や土地の由来、前住人の情報を丹念に調べ上げます。

その過程で、“呪いが過去から現在へと継承される仕組み”が明らかになります。

特に印象的なのは、現代の現象が戦後や戦前、さらには明治・江戸と時代をさかのぼっていく展開です。つまり、呪いは「出来事の結果」ではなく「時間を横断する現象」なのです。

この構造が、『呪術廻戦』における“呪いの根源を探る”物語構成に影響を与えたと考えられます。

「震源地」は思わぬ場所に──呪いの根は人間の心にある

『残穢』の最終的な恐怖は、呪いが特定の「怪異」や「場所」ではなく、“人間の行為や感情の蓄積”に由来していると明かされる点にあります。

悲しみ、恨み、罪悪感といった感情が、長い時間を経て形を変えながら残り続け、それが新たな怪異を生む──これが『残穢』の恐怖の核です。

つまり、呪いの“震源地”とは、人の心そのものであり、過去に起きた悲劇の記憶です。この発想は『呪術廻戦』における「呪霊=人の負の感情の具現化」という設定と見事に呼応しています。

小野不由美が描いた“呪いの連鎖”は、単なる怪異の再生ではなく、“人間の記憶が残穢として世界に刻まれていく構造”そのものなのです。

「呪いは廻る」──『残穢』が『呪術廻戦』に与えた思想的影響

『残穢』の核心にあるのは、“呪いは連鎖し、決して途切れない”という思想です。

この考え方は『呪術廻戦』にも深く影響を与えています。作中で繰り返し描かれる「呪いの循環」や「呪いを生むのは人間である」というテーマは、『残穢』の構造的な恐怖と同質です。

つまり、呪いは悪として消されるものではなく、存在し続け、次代に受け継がれていく“系譜”なのです。

「呪いをもって呪いを制する」思想の共通点

『呪術廻戦』の戦いでは、呪いを払うために“呪いそのものの力”が使われます。

たとえば、秤金次の「坐殺博徒」や釘崎野薔薇の「共鳴り」は、人間の痛みやリスクをエネルギー源に変える術式です。

この構造は、『残穢』の世界で“怪異の根源を調べるほど、さらなる呪いを呼び込む”という矛盾と重なります。

つまり、呪いを打ち消す手段は常に呪いの内部にしか存在せず、その中でしか抗えないという、“呪いの内的循環構造”が両作品に共通しているのです。

人間の負の感情こそが力の源泉である

『呪術廻戦』のキャラクターたちは、それぞれが抱える孤独・怒り・絶望を糧にして強くなっていきます。

五条悟の「無下限呪術」が象徴するのは、絶対的な強さと同時に、他者との隔絶です。強さの裏にある孤独こそが、彼を呪いの一部にしているのです。

このように、『呪術廻戦』の呪力とは“正の感情の反対”ではなく、“負の感情の変換”です。つまり、人の心の闇がエネルギーとなり、力に変わる。

それはまさに、『残穢』が描いた「人の思念が世界に残り続ける」という発想の延長線上にあります。

呪いは悪ではなく、“人間の感情の証”──その思想が、『残穢』から『呪術廻戦』へと受け継がれているのです。

『呪術廻戦』と『残穢』が共に描く「呪いの哲学」

『呪術廻戦』と『残穢』に共通して流れるのは、“呪いは人間の内側に存在する”という哲学です。

どちらの作品も、呪いを単なる外的な災いとして描かず、むしろ「人が生きることで生じる自然な現象」として提示しています。

つまり、呪いは誰の中にもある感情の延長線上に存在し、それを排除することは“人間性そのもの”の否定にもつながるのです。

“聖”と“呪”の二項対立を超えて

多くのフィクションでは、悪しきもの(呪い)を聖なる力が打ち倒す構図が描かれます。しかし、『呪術廻戦』も『残穢』も、そこに明確な“正義”を置いてはいません。

たとえば、『呪術廻戦』の呪術師たちは「呪いを祓う存在」である一方で、彼ら自身もまた呪力を扱う=呪いを内包する者です。

そして『残穢』においても、怪異を調査し記録する語り手が、結果として新たな残穢の媒介者となってしまうという構図が取られています。

このように、両作品は「聖と呪」「祓う者と呪われる者」という二項対立を越え、“人間そのものが呪いの循環の一部である”という思想に到達しているのです。

呪いの本質は「消すことではなく、受け継ぐこと」

『残穢』では、調査を重ねても最終的に呪いを断ち切ることはできません。それは“消す”ものではなく、“語り継ぐ”ものとして存在するからです。

同様に、『呪術廻戦』でも呪いは完全に消滅せず、次の世代へと引き継がれていきます。呪霊を祓っても、その原因となった人の負の感情は再び別の形で現れるのです。

この考え方こそが、“呪いは廻る”という言葉の本質です。

つまり、呪いとは消滅すべきものではなく、受け入れ、理解し、記憶することでしか鎮められない──それが両作品が描く“呪いの哲学”なのです。

呪術廻戦と残穢に見る「呪いの系譜」まとめ

『呪術廻戦』と『残穢』は、表現手法もジャンルも異なりますが、根底にある思想は驚くほど共通しています。

それは、“呪いは人間の感情と歴史の中で生まれ、形を変えて受け継がれていく”というものです。

小野不由美が『残穢』で描いたのは、時代や場所を超えて続く人間の記憶の痕跡であり、芥見下々が『呪術廻戦』で描いたのは、現代社会におけるその再解釈です。

両者を比較すると、呪いはもはや単なる恐怖の象徴ではなく、“人間の生きた証”として描かれていることに気づきます。

『残穢』では、誰かの痛みや悲しみが土地や建物に残る形で継承され、『呪術廻戦』では、呪力というエネルギーとして現代に可視化される。

つまり、呪いは消せない過去であり、同時に未来への継承なのです。

この視点から見れば、「呪いを祓う」という行為も、実は「呪いと向き合い、共に生きる」ための儀式と言えるでしょう。

『呪術廻戦』が持つ壮大な世界観の奥には、『残穢』から受け継がれた“静かで深い恐怖”と、“人間の業を見つめるまなざし”が確かに息づいています。

そしてその両者が交わる場所に、現代の物語が描く“呪いの系譜”が存在しているのです。

この記事のまとめ

  • 「残穢」は『呪術廻戦』の根底にある呪いの概念を象徴
  • 小野不由美『残穢』が描く呪いの連鎖が作品に影響
  • 呪いを「消す」ではなく「受け継ぐ」ものとして描く共通性
  • 『呪術廻戦』は現代における「残穢」の再解釈とも言える
  • 両作品が提示するのは“呪い=人間の感情の証”という哲学
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