『鬼滅の刃』の童磨は上弦の弐として圧倒的な強さを誇りますが、最期は胡蝶しのぶが命を懸けて仕込んだ毒と、栗花落カナヲ・嘴平伊之助の連携によって死亡します。
童磨の死亡シーンは原作第163話「心あふれる」で描かれており、誰が倒したのかを理解するには、しのぶの毒を使った作戦からカナヲと伊之助が頸を斬るまでの流れを知ることが重要です。
この記事では、『鬼滅の刃』の童磨の最期や死亡したのは何話なのか、しのぶとの因縁と最後のやり取り、童磨を誰が倒したのかを時系列で解説します。
さらに、童磨の人間時代や感情が欠落していた理由、死の直前に初めて芽生えた「恋」とも取れる感情まで、童磨の死亡シーンをより深く理解するためのポイントをまとめます。
この記事を読むとわかること
- 童磨の死亡シーンは原作何話で描かれたのか
- しのぶの毒とカナヲ・伊之助が童磨を倒した流れ
- 童磨の人間時代と最期に芽生えた感情の意味
『鬼滅の刃』童磨は第163話で死亡!しのぶの毒とカナヲ・伊之助の連携で倒された
『鬼滅の刃』の童磨は、上弦の弐という鬼舞辻無惨配下でも屈指の実力を持つ鬼でしたが、原作第163話「心あふれる」で死亡します。
童磨を追い詰めた最大の要因は、胡蝶しのぶが自らの身体そのものを藤の花の毒で満たし、童磨に吸収させるという命懸けの作戦であり、その毒が効いた瞬間を栗花落カナヲと嘴平伊之助が逃しませんでした。
そのため童磨の最期は一人の剣士が単独で勝った戦いではなく、しのぶが勝機を作り、カナヲと伊之助が頸を斬って完成させた3人の連携による勝利と考えるのが最もわかりやすいでしょう。
童磨の死亡シーンは原作19巻・第163話「心あふれる」
童磨が死亡するのは、原作コミックス19巻に収録されている第163話「心あふれる」で、前話までの戦闘によって頸を斬られた童磨の肉体が崩壊し、再生することなく消滅していく様子と、死後に胡蝶しのぶと再会する場面までが描かれているため、「童磨の死亡は何話?」という疑問への答えは第163話と覚えておけば間違いありません。
ただし、童磨を倒すまでの戦いそのものは第163話だけで完結しているわけではなく、しのぶと童磨の戦闘から、しのぶの死、栗花落カナヲの参戦、さらに嘴平伊之助が加勢して毒の効果が表面化するまでが連続して描かれているため、死亡シーンだけでなく決着の理由まで知りたい場合は、その前後の話も続けて読むと理解しやすいです。
第163話が印象的なのは、上弦の弐ほどの鬼が倒されたという事実だけではなく、童磨が死を目前にしても恐怖や悔しさをほとんど示さず、自分には最後まで人間らしい感情がなかったと振り返った直後、死後のしのぶを前にして初めて「恋」と表現する感覚を抱くという、童磨という人物の異常性と空虚さを最後まで貫いた結末になっている点です。
胡蝶しのぶが体重37キロ分・致死量700倍の藤の花の毒を仕込んでいた
童磨討伐の最大の切り札となったのが胡蝶しのぶの身体に蓄積されていた藤の花の毒で、しのぶは長期間にわたって藤の花の毒を摂取し続け、自分自身の血液や内臓、さらには身体そのものを毒として利用できる状態にしており、体重約37キロに相当する大量の毒を童磨に取り込ませました。
作中では、その量が鬼にとっての致死量のおよそ700倍に相当するとされており、通常の鬼であれば到底耐えられない規模ですが、相手は上弦の弐である童磨だったため、しのぶは単に刀へ毒を塗るだけでは倒し切れないことを想定し、自分自身を丸ごと吸収させることで一度に桁違いの量を摂取させる方法を選んでいました。
この作戦が凄まじいのは、毒が効くかどうかだけでなく、童磨が女性を好んで食べることや、強い女性であるしのぶを吸収する可能性まで読み込んだうえで自らの死を勝利条件に組み込んでいる点であり、腕力が弱く鬼の頸を斬れないというしのぶ自身の弱点を、毒の知識と執念によって逆転させた作戦だったといえます。
しのぶの毒が時間差で効き童磨を大幅に弱体化させた
しのぶを吸収した直後の童磨は大きく苦しむ様子を見せず、その後もカナヲや伊之助を圧倒していたため、最初はしのぶの作戦が失敗したようにも見えますが、実際には大量の藤の花の毒は童磨の体内に残り、時間差で一気に効果を現しました。
毒が本格的に回り始めると童磨の身体は崩れ、再生能力や動きも急激に低下していき、万全の状態ならカナヲと伊之助を容易に退けられるほどの実力を持っていた童磨に、初めて頸を斬れる現実的な隙が生まれたことから、この弱体化こそがカナヲと伊之助の攻撃を決定打へ変えた最大の要因でした。
童磨自身も死後にしのぶと対面した際、毒が体中に回り切るまで気付かなかった趣旨の反応を見せており、即効性だけを求める毒とは異なる形で童磨の警戒をすり抜けたことがわかるため、戦闘中に童磨が余裕を崩さなかったことも含めて、結果的には気付いた時には対処が困難な状態まで毒が侵食していたことがしのぶの作戦成功につながっています。
カナヲが彼岸朱眼を発動して童磨の頸に刀を当てた
毒によって弱体化した童磨に対し、最後の勝負へ踏み込んだ栗花落カナヲは、花の呼吸・終ノ型「彼岸朱眼(ひがんしゅがん)」を発動し、優れた動体視力を限界まで高めることで童磨の動きを捉え、頸へ刀を届かせることに成功しました。
彼岸朱眼は周囲の動きが極端に遅く見えるほど視覚能力を引き上げられる一方、眼球へ非常に大きな負担をかける危険な技であり、カナヲにとっても失明の可能性を覚悟しなければ使えないため、師であり姉のような存在でもあったしのぶの思いを無駄にしないため、自分の視力を賭けて放った最後の一手でした。
ここで重要なのは、しのぶの毒だけで童磨が即座に死亡したわけではないことで、毒はあくまで上弦の弐を斬れる状態まで弱らせる役割を果たし、そこへカナヲが危険な彼岸朱眼を使って接近したからこそ頸へ刀が届いており、毒による弱体化とカナヲの剣技のどちらか一方が欠けても決着には届かなかったと考えられます。
伊之助の援護で頸を斬り落としたことが童磨への決定打となった
カナヲは童磨の頸へ刀を当てるところまで到達したものの、最後まで完全に斬り抜くには力が足りず、そのままでは童磨に逃げ切られる可能性が残っていましたが、そこで嘴平伊之助が自分の日輪刀を投げ、カナヲの刀を押し込むように援護したことで童磨の頸が斬り落とされます。
この一撃によって童磨は頸を失い、さらに身体にはしのぶの大量の毒が回っていたため、本来の圧倒的な再生力を発揮できず肉体の崩壊が進み、第163話で完全に消滅することになるため、戦闘上の直接的な決定打を挙げるなら、カナヲの斬撃を伊之助が押し切って完成させた頸への一撃といえるでしょう。
伊之助は単なる援軍として戦っていたわけではなく、戦闘中に童磨から実母・琴葉との関係を聞かされ、自分の母親が童磨に殺されていた事実を知っているため、この決着はしのぶとカナヲにとっての仇討ちであると同時に、幼い伊之助を命懸けで逃がした琴葉の思いが年月を経て童磨へ届いた瞬間でもありました。
童磨を倒したのは誰?しのぶ・カナヲ・伊之助の3人による勝利
「童磨を誰が倒した?」と聞かれた場合、最も正確なのは胡蝶しのぶ・栗花落カナヲ・嘴平伊之助の3人で倒したという答えで、しのぶが毒によって童磨の再生能力と戦闘力を奪い、カナヲが頸へ刀を届かせ、伊之助が最後のひと押しを加えるという役割分担によって勝利しています。
あえて役割を分けるなら、童磨を倒せる状況そのものを作った最大の功労者がしのぶ、実際に頸へ刃を入れた人物がカナヲ、その斬撃を完成させる援護をした人物が伊之助となるため、「しのぶの毒で死亡した」「カナヲが倒した」「伊之助も倒した」という説明はいずれも一部分だけを見れば正しいものの、3人の連携と考えるのが実態に近いです。
特に童磨は上弦の弐であり、柱であるしのぶですら正面から力だけで頸を斬ることができないほど強大だったため、単独で撃破する展開ではなく、それぞれが命や視力を賭け、最後には仲間の力を重ねて勝つ構成になっていることが、この戦いを『鬼滅の刃』の中でも「受け継がれた思い」によって格上の鬼を攻略した象徴的な戦いにしています。
しのぶは第143話で童磨に吸収されることまで作戦に組み込んでいた
胡蝶しのぶは童磨との戦いで追い詰められ、原作第143話で童磨に殺され、その身体を吸収されますが、これは単なる敗北ではなく、童磨を倒すために事前に準備していた計画の核心であり、自分の身体へ蓄積させた大量の毒を確実に童磨の体内へ送り込むための方法でもありました。
もちろん、童磨が必ず自分を吸収する保証があるわけではないため非常に危険な賭けでしたが、しのぶは姉・胡蝶カナエを殺した童磨の性質や、女性を好んで食べる傾向まで把握したうえで策を練っており、自分では頸を斬れないという身体的な弱点を利用し、命そのものを毒として使う戦い方を選択しています。
そのため第143話だけを見ると、しのぶは童磨に敗れて死亡したように見えますが、後の展開まで知ると見え方が大きく変わり、しのぶの死はカナヲたちが勝利するための伏線であり、童磨がしのぶを吸収した瞬間こそ、実は上弦の弐を倒すための時限式の罠が完成した瞬間だったと理解できます。
伊之助の母・琴葉も童磨に殺されていた
童磨と伊之助には戦闘が始まるまで本人も知らなかった深い因縁があり、伊之助の実母である嘴平琴葉は、かつて万世極楽教に身を寄せた後、童磨の正体を知ったことで命を奪われています。
琴葉は夫や姑からの暴力から逃れる中で幼い伊之助を連れ、童磨が教祖を務める万世極楽教へたどり着きましたが、やがて童磨が信者を食べている鬼だと知って逃亡し、追いつかれた末に自分だけでは助からないと悟ると、伊之助だけでも生き延びさせようとして崖から川へ投げ、その後に童磨によって殺されました。
伊之助は幼かったため母親の記憶をほとんど持っていませんでしたが、童磨との戦いを通じて琴葉が自分を捨てたのではなく命懸けで守ってくれたことを知ることになり、童磨の頸を斬る場面には、しのぶとカナヲの姉妹の仇討ちだけでなく、琴葉から伊之助へつながった親子の物語にも決着をつける意味が込められています。
童磨の最期の言葉としのぶの「とっととくたばれ糞野郎」の意味
身体が崩壊した後、童磨は死後の世界と思われる場所でしのぶと再会し、それまで他人の喜怒哀楽を理解できず、自分の死を前にしてさえ強い恐怖を抱かなかったにもかかわらず、しのぶを見た瞬間に初めて心臓が脈打つような感覚を覚え、それを「恋」ではないかと考えて、しのぶに一緒に地獄へ行かないかと持ちかけます。
しかし、しのぶにとって童磨は最愛の姉・カナエを殺し、自分自身の命まで奪った仇であり、死後に突然好意を向けられたからといって許せる相手ではないため、その返答として放たれたのが「とっととくたばれ糞野郎」という極めて辛辣な言葉で、この一言には普段笑顔を崩さず穏やかに振る舞ってきたしのぶが抱え続けていた童磨への激しい怒りと憎悪が凝縮されています。
同時にこの場面は、他人の感情を理解できないまま百年以上生きた童磨が、死亡した後になって初めて本物かもしれない感情へ触れた直後、その相手から完全に拒絶されるという皮肉な結末でもあり、童磨の最期を単なる上弦の鬼の敗北ではなく、「感情を持たなかった男が最後の最後に感情らしきものを知る物語」へ変えていることが、第163話「心あふれる」という題名とも重なる印象的なポイントです。
『鬼滅の刃』童磨の人間時代と最期からわかる感情の欠落
童磨の異常性を理解するうえで重要なのが、鬼になったことで心を失ったのではなく、人間時代から他人への共感や悲しみをほとんど持っていなかったという点です。
幼い頃から万世極楽教で特別な存在として扱われ、人々の悩みを聞き続けていた童磨ですが、内心では信者たちを愚かだと見下しており、両親が壮絶な死を迎えた際にも悲しむことはありませんでした。
そんな童磨が最期にしのぶを前にして「恋」と考える感覚を抱いたことは、人間時代から続いた空虚さと対照的であり、童磨というキャラクターを読み解くうえで非常に重要な場面になっています。
童磨は万世極楽教の教祖の子として生まれた
童磨は人間だった頃から万世極楽教という宗教団体の教祖の子として育ち、虹色の瞳や白橡色の髪という珍しい容姿を理由に、神の声を聞くことのできる特別な子供として周囲から崇められていました。
まだ幼い子供である童磨のもとには多くの大人が悩みや苦しみを訴えに訪れますが、童磨自身に神の声が聞こえていたわけではなく、むしろ泣きながら救いを求める人々を見て、死ねば無になるのに極楽などを信じている人間は愚かで可哀想だという冷めた認識を持っていました。
普通なら子供が大人たちから神聖視され続ける環境そのものが人格形成に影響したとも考えたくなりますが、作中で描かれる童磨は周囲の期待に苦しんで心を閉ざしたというより、幼い段階ですでに他者と感情を共有する感覚が希薄であり、それでも「可哀想な人たちを幸せにしてあげなければ」と自分なりの役割を設定していた点に、童磨特有の歪んだ救済思想の原型が表れています。
人間時代から他人への共感や悲しみといった感情が欠落していた
童磨の感情の欠落を最も端的に示しているのが両親の死に対する反応で、父親が女性信者たちに手を出していたことに激怒した母親は父親を滅多刺しにし、その後に自らも服毒して死亡しますが、童磨は目の前で両親を失っても悲しいとも寂しいとも感じませんでした。
童磨がその場で気にしたのは、両親が死んだことそのものよりも、部屋に充満した血の臭いをどうにかしたいということでしたから、これは鬼になって人間性を失った結果では説明できず、人間として生きていた幼少期から家族の死さえ自分自身の悲しみとして受け取れなかったことがわかります。
さらに童磨は二十歳の頃に鬼となり百年以上生きた後、自らの消滅を目前にして人間の感情は自分にとって他人事のようなものだったと振り返っているため、私は童磨の怖さは「感情的になって残酷な行為をする悪人」ではなく、最後まで相手の苦痛を自分の感覚として理解できないまま、笑顔で残酷な行為を続けられる人物であるところにあると感じます。
信者を見下しながら「救済」と称して人間を食べていた
鬼となった童磨は万世極楽教の教祖として活動を続けながら、人間を食べる行為そのものを自分なりの「救済」として正当化しており、自分が信者を食べることで、その人間は自分の中で永遠に生き続けられるという独特な理屈を持っていました。
一見すると信者を救おうとしているような言葉ですが、その根底には相手が本当に何を望んでいるのかという視点がなく、童磨は人間の苦悩に共感できないまま「自分が救ってあげる」と一方的に結論づけているため、童磨の救済とは相手の意思を無視した自己完結的なものだったといえます。
特に恐ろしいのは、童磨自身が悪意だけで人間を苦しめようとしているわけではなく、本気で自分は人々を救い、世の中の役に立ってきたと認識している点で、最期の瞬間に至っても自分を社会へ貢献してきた存在として捉えていることから、殺人と救済が童磨の中では矛盾せず成立していたことが、この鬼の価値観をより不気味なものにしています。
童磨が「クズ」「サイコパス」といわれる理由
童磨が読者から「クズ」「サイコパス」などと評されやすい最大の理由は、単純に多くの人間を殺したからだけではなく、他人の悲しみや怒りを理解できないまま笑顔で接し、相手の大切な人を殺したことさえ悪びれずに話せるという言動にあります。
たとえば胡蝶カナエを殺した童磨は、妹であるしのぶと対面しても相手の憎しみに共感することがなく、伊之助に対しても母・琴葉との過去をまるで昔話を披露するように語るため、家族を奪われた側からすれば到底許し難く、残酷な出来事と本人の軽快な態度との温度差が強烈な嫌悪感につながります。
ただし「サイコパス」は本来、専門的な文脈で慎重に扱うべき言葉でもあるため、童磨を医学的に診断するように断定するより、作品上のキャラクター表現として共感性や罪悪感が極端に乏しく、表面的には社交的で魅力的に振る舞う人物として描かれていることが、一般的な「サイコパス像」を連想させると捉えるほうが適切でしょう。
美しい外見と穏やかな態度が冷酷な本性とのギャップを生んでいる
童磨は虹色の瞳を持つ華やかな容姿に加え、常に笑顔を浮かべ、初対面の相手にも親しげに話しかける人物として描かれており、見た目と話し方だけなら上弦の鬼の中でも特に人当たりがよく見えることが大きな特徴です。
ところが、その穏やかな表情のまま人間を食べ、相手が怒っていても悲しんでいても態度をほとんど変えず、命を奪うことさえ「救い」と考えているため、美しい外見・柔らかな言葉遣いと、他者の命を軽視する冷酷な本性が極端なギャップを作り出しています。
私はこのギャップこそ童磨が強く印象に残る理由の一つだと感じますが、怒鳴ったり威圧したりする敵なら危険性をすぐ理解できる一方、童磨は笑顔のまま距離を縮めてくるため、何を考えているのかわからない不気味さがあり、「感情豊かに見えるのに実際には心が動いていない」という矛盾した印象が童磨ならではの恐ろしさを生んでいます。
死亡直前にしのぶへ抱いた「恋」は童磨に芽生えた初めての感情だったのか
童磨の最期で特に議論されるのがしのぶに抱いた感覚で、死後にしのぶと再会した童磨は、すでに存在しないはずの心臓が脈打つように感じ、これを自ら「恋」ではないかと捉え、こんな感覚が本当に存在したのだと驚きます。
直前まで童磨は、自分が死ぬにもかかわらず恐怖や悔しさを抱けず、百年以上生きても人間の感情は自分にとって遠いものだったと認識していたため、その流れから読むと、しのぶへの恋は童磨が初めて明確に自覚した人間らしい感情だったと解釈することができます。
一方で、それが私たちの考える一般的な「愛情」と同じものだったのかまでは断定しにくく、童磨自身が初めて経験する心の動きを「恋というやつかな」と解釈しているにすぎないとも読めるため、しのぶを本当に愛したのか、それとも未知の感覚を恋と名付けただけなのかという余白が残されています。
そして童磨はその感覚に興味を持ち、しのぶへ一緒に地獄へ行こうと誘いますが、返ってきたのは「とっととくたばれ糞野郎」という強烈な拒絶でした。
人間時代から何も感じられなかった童磨が、すべてを失った最期になって初めて感情らしきものを知り、その相手には決して受け入れてもらえないという皮肉まで含めて考えると、この「恋」は童磨の感情の欠落を最後に際立たせるための非常に象徴的な結末だったと私は感じます。
『鬼滅の刃』童磨の人間時代と最期からわかる感情の欠落
童磨の異常性を理解するうえで重要なのが、鬼になったことで心を失ったのではなく、人間時代から他人への共感や悲しみをほとんど持っていなかったという点です。
幼い頃から万世極楽教で特別な存在として扱われ、人々の悩みを聞き続けていた童磨ですが、内心では信者たちを愚かだと見下しており、両親が壮絶な死を迎えた際にも悲しむことはありませんでした。
そんな童磨が最期にしのぶを前にして「恋」と考える感覚を抱いたことは、人間時代から続いた空虚さと対照的であり、童磨というキャラクターを読み解くうえで非常に重要な場面になっています。
童磨は万世極楽教の教祖の子として生まれた
童磨は人間だった頃から万世極楽教という宗教団体の教祖の子として育ち、虹色の瞳や白橡色の髪という珍しい容姿を理由に、神の声を聞くことのできる特別な子供として周囲から崇められていました。
まだ幼い子供である童磨のもとには多くの大人が悩みや苦しみを訴えに訪れますが、童磨自身に神の声が聞こえていたわけではなく、むしろ泣きながら救いを求める人々を見て、死ねば無になるのに極楽などを信じている人間は愚かで可哀想だという冷めた認識を持っていました。
普通なら子供が大人たちから神聖視され続ける環境そのものが人格形成に影響したとも考えたくなりますが、作中で描かれる童磨は周囲の期待に苦しんで心を閉ざしたというより、幼い段階ですでに他者と感情を共有する感覚が希薄であり、それでも「可哀想な人たちを幸せにしてあげなければ」と自分なりの役割を設定していた点に、童磨特有の歪んだ救済思想の原型が表れています。
人間時代から他人への共感や悲しみといった感情が欠落していた
童磨の感情の欠落を最も端的に示しているのが両親の死に対する反応で、父親が女性信者たちに手を出していたことに激怒した母親は父親を滅多刺しにし、その後に自らも服毒して死亡しますが、童磨は目の前で両親を失っても悲しいとも寂しいとも感じませんでした。
童磨がその場で気にしたのは、両親が死んだことそのものよりも、部屋に充満した血の臭いをどうにかしたいということでしたから、これは鬼になって人間性を失った結果では説明できず、人間として生きていた幼少期から家族の死さえ自分自身の悲しみとして受け取れなかったことがわかります。
さらに童磨は二十歳の頃に鬼となり百年以上生きた後、自らの消滅を目前にして人間の感情は自分にとって他人事のようなものだったと振り返っているため、私は童磨の怖さは「感情的になって残酷な行為をする悪人」ではなく、最後まで相手の苦痛を自分の感覚として理解できないまま、笑顔で残酷な行為を続けられる人物であるところにあると感じます。
信者を見下しながら「救済」と称して人間を食べていた
鬼となった童磨は万世極楽教の教祖として活動を続けながら、人間を食べる行為そのものを自分なりの「救済」として正当化しており、自分が信者を食べることで、その人間は自分の中で永遠に生き続けられるという独特な理屈を持っていました。
一見すると信者を救おうとしているような言葉ですが、その根底には相手が本当に何を望んでいるのかという視点がなく、童磨は人間の苦悩に共感できないまま「自分が救ってあげる」と一方的に結論づけているため、童磨の救済とは相手の意思を無視した自己完結的なものだったといえます。
特に恐ろしいのは、童磨自身が悪意だけで人間を苦しめようとしているわけではなく、本気で自分は人々を救い、世の中の役に立ってきたと認識している点で、最期の瞬間に至っても自分を社会へ貢献してきた存在として捉えていることから、殺人と救済が童磨の中では矛盾せず成立していたことが、この鬼の価値観をより不気味なものにしています。
童磨が「クズ」「サイコパス」といわれる理由
童磨が読者から「クズ」「サイコパス」などと評されやすい最大の理由は、単純に多くの人間を殺したからだけではなく、他人の悲しみや怒りを理解できないまま笑顔で接し、相手の大切な人を殺したことさえ悪びれずに話せるという言動にあります。
たとえば胡蝶カナエを殺した童磨は、妹であるしのぶと対面しても相手の憎しみに共感することがなく、伊之助に対しても母・琴葉との過去をまるで昔話を披露するように語るため、家族を奪われた側からすれば到底許し難く、残酷な出来事と本人の軽快な態度との温度差が強烈な嫌悪感につながります。
ただし「サイコパス」は本来、専門的な文脈で慎重に扱うべき言葉でもあるため、童磨を医学的に診断するように断定するより、作品上のキャラクター表現として共感性や罪悪感が極端に乏しく、表面的には社交的で魅力的に振る舞う人物として描かれていることが、一般的な「サイコパス像」を連想させると捉えるほうが適切でしょう。
美しい外見と穏やかな態度が冷酷な本性とのギャップを生んでいる
童磨は虹色の瞳を持つ華やかな容姿に加え、常に笑顔を浮かべ、初対面の相手にも親しげに話しかける人物として描かれており、見た目と話し方だけなら上弦の鬼の中でも特に人当たりがよく見えることが大きな特徴です。
ところが、その穏やかな表情のまま人間を食べ、相手が怒っていても悲しんでいても態度をほとんど変えず、命を奪うことさえ「救い」と考えているため、美しい外見・柔らかな言葉遣いと、他者の命を軽視する冷酷な本性が極端なギャップを作り出しています。
私はこのギャップこそ童磨が強く印象に残る理由の一つだと感じますが、怒鳴ったり威圧したりする敵なら危険性をすぐ理解できる一方、童磨は笑顔のまま距離を縮めてくるため、何を考えているのかわからない不気味さがあり、「感情豊かに見えるのに実際には心が動いていない」という矛盾した印象が童磨ならではの恐ろしさを生んでいます。
死亡直前にしのぶへ抱いた「恋」は童磨に芽生えた初めての感情だったのか
童磨の最期で特に議論されるのがしのぶに抱いた感覚で、死後にしのぶと再会した童磨は、すでに存在しないはずの心臓が脈打つように感じ、これを自ら「恋」ではないかと捉え、こんな感覚が本当に存在したのだと驚きます。
直前まで童磨は、自分が死ぬにもかかわらず恐怖や悔しさを抱けず、百年以上生きても人間の感情は自分にとって遠いものだったと認識していたため、その流れから読むと、しのぶへの恋は童磨が初めて明確に自覚した人間らしい感情だったと解釈することができます。
一方で、それが私たちの考える一般的な「愛情」と同じものだったのかまでは断定しにくく、童磨自身が初めて経験する心の動きを「恋というやつかな」と解釈しているにすぎないとも読めるため、しのぶを本当に愛したのか、それとも未知の感覚を恋と名付けただけなのかという余白が残されています。
そして童磨はその感覚に興味を持ち、しのぶへ一緒に地獄へ行こうと誘いますが、返ってきたのは「とっととくたばれ糞野郎」という強烈な拒絶でした。
人間時代から何も感じられなかった童磨が、すべてを失った最期になって初めて感情らしきものを知り、その相手には決して受け入れてもらえないという皮肉まで含めて考えると、この「恋」は童磨の感情の欠落を最後に際立たせるための非常に象徴的な結末だったと私は感じます。
この記事のまとめ
- 童磨の死亡シーンは原作19巻・第163話「心あふれる」
- 童磨攻略の鍵は、しのぶが命懸けで仕込んだ藤の花の毒!
- 弱体化した童磨の頸をカナヲと伊之助の連携で斬り落とした
- 童磨を倒したのは、しのぶ・カナヲ・伊之助の3人による共闘
- しのぶは自身が吸収されることまで計算した毒殺作戦を実行
- 伊之助の母・琴葉も童磨に殺されており、深い因縁があった
- 童磨は人間時代から他人への共感や悲しみが欠落していた
- 最期にはしのぶへ「恋」とも取れる初めての感情が芽生えた
- 童磨の最期を象徴する、しのぶの「とっととくたばれ糞野郎」!


